LOGIN料亭を出た皆川隆盛は、一度療養中の屋敷に戻った。この朝比奈総合病院が用意した別邸は崇道の監視の目があるはずだが、誰一人として隆盛が外出していたことに気づいていないようだった。(いや、違うな)篠原樹の手の者は隆盛が外出していたことを知っている。数分の外出ではない。その者の隠ぺい工作がなければ騒がれていただろう。(それなのに……)誰かは分からない。そのことに悔しさを感じればいいのか。それとも頼もしさを感じればいいのか。小春を任せているということを考えれば、その頼もしさに安心すればいい。自分でそれができない悔しさを隆盛は無理やり飲み込む。プライドよりも大事なことがある。小春のことだ。(……すまなかった)心の中で、亡き親友と花乃に謝る。頭に小春の診断書が浮かぶ。怪我や病気は仕方がないにせよ――栄養失調。この日本で。あの朝比奈家の娘が。.「君」隆盛は近くにいた使用人に声をかけた。「朝比奈総合病院に行きたいのだが、車の手配を頼めるか?」「……畏まりました」何かを推し量るような間と、探るような表情。(あの者は違うな)さて、誰なのだろうか。いま自分のしようとしていることも、篠原樹に報告されるだろう。(いや、こうすることも既に読まれているかもしれないな)◇◇◇「皆川様、どうなさいましたか?」病院に行くと崇道が出迎えた。「もしや、体調に異変が?」そう問う崇道の声に、期待が滲んでいるような気がした。だが、崇道のやったことを考えてそう聞こえるだけか。「家で休んでいても退屈でな」隆盛は穏やかに笑ってみせる。「話がしたい」「……分かりました。院長室に行きましょう」
「小春を家に連れていったのは俺の判断ですが、今ではそれで正解だったと自分を褒めていますよ」樹は言葉を区切る。「小春が、話してくれました」樹が小さく笑う。その笑みはどこか痛々しく、冷酷と噂される男には不似合いだと隆盛は思った。「しばらくして、ようやくという形でしたけれど」花乃の葬儀のすぐあと、後妻の夏美が千夏を連れて朝比奈家に来たこと。花乃の部屋は夏美に、小春の部屋は千夏に奪われたこと。柳沢がまた一枚、書類を隆盛に差し出す。「小春の高校時代の成績です。見ての通り優秀で、本人も医学部への進学を考えていました」「だが……」思わず口から出た反論に、隆盛は目を伏せる。「そうです。小春は大学には進学していない。朝比奈崇道が許さなかったそうです」樹は言葉を切った。「朝比奈崇道は小春を病院で働かせた。そして、いつの頃からか、院長の仕事も小春に押しつけていたそうです」新しい書類が置かれる。朝比奈崇道の行動の記録だった。「皆川様は先代院長のご親友だったと聞いています。医者であり、病院長でもある者が、会食、ゴルフ、愛人との旅行にと遊び歩けますか?」どうぞ、と初めて発言が許可された。「無理だ」皆川自身は医者ではないが、樹の言う通り、親友は医者だった。その忙しさはよく知っている。それに――。「愛人、ですか?」「ええ。ざっと調べたところ三人。よく奥方にバレないものだと感心してさらに調べたら、奥方のほうにも愛人がいました」樹がポケットからペンを抜き、その先端を書類に刺した。インクが滲み、【朝比奈崇道】の名前が黒く塗りつぶされた。「これだから、悪女が必要だったんですよ」「……必要?」「浮気して私生児を作った事実を、正当化するためです。夫婦のことだからでしょうが、この時点では朝比奈崇
「お待ちしておりました」黒塗りの車の後部座席から降りると、スーツ姿の男性が皆川隆盛を出迎えた。「私、篠原樹の秘書の柳沢と申します。何かご不便はありませんでしたか?」「不便はなかったが」言葉を切った隆盛は周りを見渡す。会員制の料亭で、秘密の話をするならば一番安全と言われている店。隆盛もここには馴染みがあるが。「療養先を抜け出して、こっそりやってくるには、いささか上等すぎるな」隆盛は自分の格好を見る。ビジネスカジュアルと言える姿だが、この店に来るにはラフ過ぎた。「大変申し訳ありません。今回の顔合わせはどうしても秘密にしておきたかったので」隆盛は柳沢を見た。「朝比奈小春に関係があることか?」静かに問い質したが、柳沢の表情は変わらなかった。眉一つ動かさない柳沢に隆盛は感心する。「篠原社長は優秀な秘書をお持ちだ」「恐縮です」そう言って柳沢は頭を下げると、隆盛を案内した。先を歩きながら、柳沢はさりげなく背後を窺う。足取りは、療養中とは思えないほど確かだった。背筋を伸ばし、前を向いて歩くその姿は、隆盛の代名詞と言える実直さを表していた。杖こそ手にしているものの、長年財界を見てきた鋭さはしっかりと残っている。.襖を開いて、隆盛を先に通す。樹はすでに部屋の中で隆盛を待っていた。「お久しぶりです」樹が一礼すると、隆盛も穏やかに頷いた。「急な申し出を受けていただき、ありがとうございます」「こちらへどうぞ」二人は向かい合い、椅子に腰を下ろす。そのタイミングで店の者が来て、一礼する。そして提供する料理の説明をする。自分の食事制限を配慮したメニューだと理解した隆盛は苦笑する。「私のことを調べたようですね」「知る必要があったので」「そうです
夕食を終えたあと、小春は部屋に戻らず、食堂の窓から庭を眺めていた。夕日に照らされた花々は昼間とは違う穏やかな表情を見せている。扉が開いて、樹が入ってきた。「先にいただきました」「ちゃんと食べられたか?」小さい子どもにかけるような樹の言葉に小春は笑う。「全部食べることができました」「そうか」小春の言葉に樹は満足気に頷き、席につく。すぐに橘が樹の分の夕食を持ってきて、樹の前に並べる。「今日も野菜がたくさんだな」樹の目が小春へ向けられる。その目にやや恨みがましいものを感じて小春は苦笑する。「栄養がたくさんあります」「栄養はきちんと取っている」「何とかゼリーとか、何とかドリンクで昼をすませましたね」小春の指摘に、樹は少しだけ口角を上げる。「今日の昼は固形物だ」「何とかブロックも同じです」「しっかり噛んで食べた」食に拘りのない樹にとって、これまで食事は栄養補給だった。食事の時間も惜しかったこともあり、栄養ドリンクやゼリーを食事とすることも多かった。それをずっと使用人たちは心配していた。だが、いまは小春がいる。この屋敷で、唯一樹が素直に従う女性。これ幸いと使用人たちは樹の食生活の悲惨さを小春に言いつけた、いや、訴えたのだった。.「嚙んでって……」「俺の歯の衰えを心配していただろう?」小春は呆れた。その前も似たようなことがあった。いくら栄養があるといっても、ドリンクばかりではよくないと言った。そして次の日に樹から言われたことは。――今日はゼリーだ。そういう問題ではない。「歯の心配をしているのでは……」小春は言葉を切った。「歯も心配ですが、噛むだけじゃなくて、ちゃんと味わってください」「……だから小春はまだ食堂にいたのだな」「はい」樹に食事をさせるのだと、使命感に満ちた小春。「野菜が大事なことは分かった。だが、なぜこう野菜が多い?」樹は目の前の皿を見る。今夜のメニューはカツレツなのだが、付け合わせの野菜ではなく、野菜の付け合わせがカツレツになっている。「肉が小さすぎないか?」「揚げ物、ベーコンやソーセージなどの加工肉などはめっきり食べられなくなったと聞きました」「は?」「だからゼリーやドリンクですませてしまうことが多いのだと」「待て。それは誰からの情報だ?」「橘さんです」小春の即答
「小春様、お疲れさまでした」庭師の新井が帽子を脱いで頭を下げる。「こちらこそ、ありがとうございました。いろいろ知れて、嬉しかったです」小春も笑顔で頭を下げた。土で少し汚れた軍手を外し、花壇を見渡す。色とりどりの花が風に揺れ、小さな蕾もいくつか顔を覗かせていた。「キングがまだ小さくてよかったです」「そうですね」そう答えながら、小春は花壇の隅に小さな猫の足跡があることに気づいた。しゃがみ込んで、土をかぶせ、足跡を消す。「気になっていたのですが、『キング』というのは樹様の命名ですか?」新井の問い掛けに、小春はキョトンとした顔で首を傾げる。「私ですが?」小さいながらも、人を見て逃げることのない堂々とした風格から、小春は子猫に『キング』と名付けた。「……おかしい、ですか?」新井は何か言いたげな表情をしている。思えば、猫の名前の話になると、みんなこんな顔をする。(樹さんだけだわ)キングと名付けたと言って、「似合っている」と即答したのは樹だけだった。◇◇◇(似た者同士だよな)使用人仲間から子猫の名前を聞いたとき、新井は昔を思い出した。樹が庭で見つけた瀕死の小鳥。その上に伸びた枝には鳥の巣があった。そこから落ちたのだと思った樹は、大きな鳥籠を買ってもらい、底板を外した籠を小鳥の上からそっと被せた。人のにおいがつくと家族の元に帰れなくなるから。樹は自分のにおいがつかないよう、細心の注意を払いながら小鳥の世話をした。小鳥は徐々に回復していった。樹は小鳥に「ボス」と名付けた。これが初代ボス。使用人たちは、樹が「ボス」と名付けたことがすべての始まりだったと思っている。.樹は名前は付けたものの、野に返す前提で世話をしていた。そして飛び立つ日。樹は籠を外したのだが、鳥に帰る気がなかった。その現場に立ち会った新井の目から見て、全くその気はなかった。飛ぶが、庭から出ていかない。樹は外の世界を怖がっているのだろうかと言っていた。だが、新井の目には違うと分かっていた。何しろボスは太々しかった。か弱く、怯えてみせるのは樹の前だけ。他のときは実に堂々としていた。庭へほかの鳥が飛んでくれば、嘴で突いて追い払うほど勇ましかった。――あれ、絶対にメスだ。そう言ったのは誰だったか忘れたが、卵を産んだのだからメスだと思う。.
柳沢が新たな報告書を樹へ差し出していた。「皆川隆盛様は、ご自身で小春様を捜すおつもりのようですね」「やはりそうなったか」樹は報告書を閉じる。「朝比奈崇道は、足止めにもならなかったな」「格が違いすぎますからね」樹がため息を吐く。「その朝比奈崇道はどうしている?」「相変わらず、似たような捜索を続けています」柳沢の資料を見て、樹は呆れる。「失踪前の行動パターンの分析など、情報共有すれば早いだろう」「……漏れがあっては大変、ということでしょう」「小春は自宅と病院の往復しかしていない。しかも公共交通機関」樹がタブレットの画面を指で突く。「友人もいない。行きつけの店もない。これで小春の行動に漏れがあったりしたら、そちらのほうが驚く」「漏れを見つけた者は、篠原家の調査員にスカウトしてもいいかもしれませんね」皆川の雇った探偵たちが、定番の調査しかしていないことが分かる。「近所への聞き込みだって、どれもこれも全員被っているではないか」「違う人物から聞かれたとはいえ、そろって小春様のことを聞けば近所の人も不審がりますよね」「小春の失踪が皆川に知られるのはすぐだな」「私もそう思います」樹は眉間にしわを寄せた。「皆川は、警察を動かすと思うか?」「恐らく」雨の夜。財布も持たずに外出。「スマートフォンを持って出たことは分かっているが、現在地は追えない」「事件性があると警察が判断してもおかしくないな」「警察が介入したら……厄介ですね」警察は個人情報の照会ができる。照会すれば、先日の様々な手続きに樹と柳沢が関与したことが明らかになる。そのことについて、法律上は問題ない。成人女性が自分の意志で家を出た。そして篠原邸に滞在







